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2人で狂う……好きなだけ

演出 菊池亮太

原作 ウジェーヌ・イヨネスコ

出演 大久保慶美

   大橋典生

解説


本作は、他意識という独自の演劇理論を実験的に提唱して作品づくりに取り組みました。この他意識とは「自分とは制御の効く他人かもしれない、他人とは制御の効かない自分かもしれない」という概念であると簡単に説明しています。もう少し具体的に説明すると、役者自身が自分というものを他人だと考えます。と、同時に、テキストの役(他人)の中に自分を探し出します。そしてこの役者と役の2つは、あたかも他人同士であるかのように演じる, という演劇理論です。そのため、普段みなさんが抱く「演劇」のイメージとはかなり離れた作風に仕上がっていると思われます。


普通の演劇作品では、役者が役になりきって戯曲に書いてある通りに演技をするその中で役者が一喜一憂するドラマを醍醐味としています。しかし、役者=役という平面的な関係の作品を多く見ていると、演劇の本来持つ「時間的,空間的な総合芸術性」という可能性が、かなり失われてしまっているのではないか、と感じます。この「役者一役、それを観る観客」という関係を想定するのは、近代以降では代表的なドラマツルギーなのですが、その創設者の一人でもある世界最高の演出家と謳われる「ピーター·ブルック」は演劇、ことに役者(俳優)の在り方について「何もない空間を俳優が歩く、それで演劇は十分かもしれない」ということを語っています。これについて俳優さえいれば演劇が成り立つ」というのは、以後に起こった傲慢な解釈で「俳優という演劇装置がそこに在るための心得」であるように私は考えます。「役者が自意識的な演技などを行わずとも、ただ目劇者(もくげきしゃ)がいるその場所に俳優が存在するだけで、演劇は起こり得るものなのではないか」という問いではないでしょうか。つまり「演技などしなくても、演劇は十分に起こり得る、たとえ何もない空間であろうとも、演劇は起こり得る可能性を持っている」ということを述べているのではないでしょうか。近代ドラマツルギーの中で、この可能性はずいぶん忘れられている気がします。


本作は、「演技」とはかなり遠い所で俳優が舞台空間を生きています。本当に演技というものが演劇の醍醐味ならばこの作品は演劇作品でもないかもしれませんし、そもそも演劇作品であるつもりで作品づくりに挑んでいなかったと思います。「演劇になるかもしれないもの」を私たちはつくっています。つくり手が演劇だと思って発信する演劇などこの世にはないのではないでしょうか。劇場空間で起こるかもしれない劇的瞬間が演劇であると私は俳優によく話します。


本作より、作品解説の場を設けましたのも、身体言語がどのようなコンセプトで、現在また本作の作品づくりをお
こなっているのか、私たちが今何を問題ととらえて演劇と向かっているのか、より深くご理解いただければと思った次第です。


身体言語芸術監督 菊池亮太
 

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