無人島
演出ノート
『無人島』は、ちょうど一年前に起こった「フランス パリ同時多発テロ事件 (11月13日、14日)」を通して、私の中に抱かれた「日本という幻想国家の持つ限りなく暗黙の違和感」を出発点として描かれている。
昨年2月に出発した身体言語の作品制作も本作で5作品目となる。中でも2016年に上演することになった3作品は独特である。
部屋の外で行われている戦争に無関心に、部屋の中でいさかいを繰り返す男女の姿を、フランス前衛劇作家イヨネスコが描いた『2人で狂う』。日本の介護施設の中での労働を現代口語演劇で描き、作品の結末では、テロリズムに潜む幼稚性を突然に介入させ物語を終了させる『悲鳴 (作・菊池亮太)』。そして本作、日本に流れる他人感が言葉となって集まった『無人島』。 2016年、作品選びの時点ではこのラインナップを意図したわけではないが、結果的に身体言語は現代社会に対してオンタイムに作品を制作してきたことになった。
私は、現代社会と文化芸術は、限りなく不可分だと考えている。
優れた宗教画は、作家が意図せずとも、その後の政治的情勢を左右し得るし、「歌劇王」ワーグナーの作曲はヒトラーのナチズムの行進に一役かってしまったかもしれない。もちろん芸術は常に正しく行使されることだけではない。
日本では今年、ある音楽フェスティバルで「政治に音楽を持ち込むな」という批判があったが、これは甚だ場違いである。政治(統治)国家に暮らす私たちは、死ぬまでその生活の全てで政治とは不可分だ。私はそこで芸術を行使している。
ラディカルに変容を続ける現代社会では、その実態を定義することは難しいかもしれない。昨日の情報は、もう「古い」のだ。
だからこそ芸術家は、常に正しく、政治の中で、国際社会の中で、私たちの情報を発信する力強さを、芸術の中に探っている。昨日の演出はもう「古い」。と、毎日言っていることが変わるから、俳優は苦しんでいる。
なにかひとつだけ無人島に持っていくなら、何を持って行くか? という質問がある。この質問に対して私はずっと「言葉」を持って行きたいと考えていた。
この作品に描かれた島は、言葉だけが辿り着く島。あるいは、言葉を持って行き忘れた者のみが辿り着いた島かもしれない。
「なんとなく」「てきとうに」生きていける私たちを立方的に切り取った。
舞台撮影:やまなのひと