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現代を生きる私たちにとって演劇とは、芸術とは何でしょうか。


つくり手である私たちは、《何が芸術になり得るか》《何が演劇になり得るか》という大きな問いの前に、常に立ち続けています。人間の手段が差別的な方法から、無差別的な方法(グローバリズム、テロリズム)へと変わり行く現代で、芸術の真価は誰を対象として発揮されるのでしょうか。
演劇というアナログで、あるところでは精神的な営みは、芸術観賞と遠い人々に対して普及することを許されていません。私たちは社会的整合性をはかるためのポジションとポシビリティをこれからの演劇の中に見つけなければなりません。
劇団 身体言語は、常に変容的な作品制作/活動理念を持ち、より芸術が発展するために舞台芸術を中心として芸術の新しい在り方を模索している芸術集団です。

現在の日本でいかに演劇を社会にコミットさせ、より開かれた活動にしていくか。これはそのつくり手に取って、大きな課題と言えるでしょう。現在の日本の演劇のプラットフォームは、時としてフィルターバブルを形成してしまいます。
例えば劇場は、その施設の品格や規模、料金体系からそれそれがブランドを持ち、作品の質や劇場のコンセプトとは関係のない所で芸術に触れる観客を選び始めています。演劇とは本来なら、その空間がどのような表現をすることに優れた場所なのかに着目し、空間と対話すべきものです。観客を選ぶということは、すなわち、そこでつくるつくり手さえ選ばれ、つくるにあたってつくり手はまた都合のいい演者を選ぶことになります。都合だけでの選択とろ過を繰り返してしまっています。
芸術は決して選ばれた者たちだけの営みでも、趣味として芸術や作品に興味のある者だけの営みでも、ありません。演劇がここまで時代と逆行し、(あるところで)差別的になってしまう必要があったのかだろうかと、私は現在の演劇を通して疑問に思っているのです。

 

現代芸術の、ことに演劇の話をする時、私はアンダーグラウンド演劇を築いて来た鈴木忠志氏や寺山修司氏が語っていた『舞台上ではガラクタも輝く』という言葉を思い出します。はたして《現在の日本の舞台上ではガラクタは輝けるのだろうか》《ガラクタに眠る輝きを見失ってはいないか》と。
現代演劇作品は非常にスタイリッシュであり効率的で、テクノロジーと共に急成長を遂げ、そのインパクトには目を見張るものがあります。一方でそのアート路線はいつの間にか、作品の内側から『無駄』や『異物』を追い出すことをしてしまっている気がしてならないのです。もちろん、そんな作品ではガラクタなんて舞台に上げられません。
作品のテリトリーに作品に取って有用なものだけを残し、作品に触れる全ての人間にも同じく有用性だけを求めてしまってるのではないでしょうか。
そこには『排他性』と『同質性』しかなく、アートと表裏一体であり、ときに本質ともなりうるはずの『批評性』や『他者性』は見られません。
『批評性』とは、作品を通して見えてくる現在、世界とは、私とは何者であるかと懐疑的になることであり、『他者性』とは、自分にはわからない感情や論理に対して認知や見解を深め、私ではないもの、私には理解できない存在に意識を向けることです。芸術が無限のポシビリティを持つとされている本旨はここにあるはずでした。しかし、その無限の部分をすっかり削ぎ落としてはいないでしょうか。

私たちは創造という時間と空間を、同じ考えを持った者だけが帰属する『単なる集いの場』だとは考えません。

 

わからないけれど触れてみる。

そこで起こる摩擦のようなエネルギーは、時として気持ちのいいものではないかもしれない。しかし、わたしたちは、新しく他者を見つけ、またその他者との境界線に『自己を再発見し共存を思考する』ことでより世界に対して自由になる可能性を得る。そこではガラクタさえも光り輝く、これが芸術ではないでしょうか。
この芸術の潜在されてしまった能力を、これからのグローバルネットワーク社会に、力強く発揮したい。

芸術をつくり、作品に触れることは、私たちが現代社会から精神的自由を獲得する方法であると定義します。ここでの自由とは、全てを許されている状態ではありません。
私たちは常に憲法に守られて国家に生き、ルールや制約に従って生活をしている。ときに公共の利益の下で苦難を余儀なくされ、不条理は加速度的に社会を暗雲に包む。
自由を獲得するには、私たちが何者に寄って縛られているのかを知る必要があり、最初から自由であることなどあり得ません。
ことばを扱う作家たちは、疎通を図るために必ず『誰かと共有できる言葉』という制約(不自由)の下で、いかに永遠のような言葉にしがたい感覚を表現しするかということを追求し続けて来ました。彼らだけがその身体に内在するプリミティヴな『ことば』でも、芸術として転化するためには『言語』の制約のもとで、他者に共有されることから始まります。この制約の内に創造し、獲得するもの。それが現代を生きる私たちの精神的な自由です。
作品をつくることは、『同質性』や『排他性』の下で、その空間、その作品だけのルールをつくり、その中だけの自由を築き、それを限られた人間だけで共有することなどでありません。
私たちはすでに日常生活からルールの中で生き、努め、苦しみ、ある時は泣き、また幸せを感じているのです。
少なくとも私は、私たちの世界だけでつくり上げたルールに触れて欲しいわけではない。
世界という制約、現代という制約、国家という制約の中で、言語を共有できる私たちさえ、時には自分自身の感情でさえ、かくも他人であるものか。そしてその外側に潜むもっと多くの他者に、私たちの作品を通して触れ、出会っていただきたい。
劇場という空間の中に来るからこそ触れられる、世界の外側にある自由。

 

そんな場所をつくり、また作品をつくるのが私たちの役割だと考え活動を行っています。

 

共感できなくてもいい、肯定できなくてもいい、受け入れられなくてもいい。

それでも行ってみる。
 

そこが劇場です。

そこで私たちを呼び、私たちを待ち続けているもの。

それが芸術であってほしいのです。

 

平成二十九年 三月一日 劇団二周年 寄稿
劇団BLAC 身体言語 芸術監督 菊池亮太

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