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悲鳴

作 演出 菊池亮太

 出演 大橋典生

    尾上笑子

    菊池亮太

    小佐々育加

演出ノート

 

 今年は週刊文春が、非常に売れたらしいですね。スクープとスキャンダルにたえないから。他にも出版業界では、お笑い芸人のピース又吉さんが芥川賞を受賞、劇作家の本谷有希子さんの受賞と小説のジャンルでも、垣根を超え活躍する人物が発見され、業界を牽引すべく注目を集め始めています。それでもインターネットの普及に伴い、右肩下がりになり始めた出版業界の売り上げは、持ち直すことがないらしいんですが。

 

小説にジャンルがあるように、演劇の戯曲(ぎきょく)(テキストのこと)にも、いくつかジャンルがあって、それをここで全て上げることはできない程度に、実はたくさんあります。

 その最古の様式に『機械仕掛けの神』という様式があります。専門的な言い方をすると『デウス・エクス・マキナ』とも呼ばれています。これは解決できない事が起こりすぎて、どうにも収まらなくなった物語のつじつまを、無理矢理に合わせるために、最後に突拍子もない解決策を用意する。ほとんどは、神様(=デウス=ゼウス)が降りてきて、物語を終わらせるという、今でいう《ダメな芝居》の典型として語られる型です。

わかりやすいところでいうと、『水戸黄門』ですね。黄門様と助さん角さんが印籠を掲げたところで、今の今まで血眼になって争っていた者たちが跪き、さんざん悪態をついてきた悪代官様は大人しく、さらわれた町娘はまじめな色男と晴れて結婚を許される。冷静に考えて、印籠を掲げただけでこれだけのことが突然解決するはずはないのですが、ご愛敬というのでしょうか。

この手法の代表的な物語は『ギリシャ悲劇』にあります。是非、調べてみてください。ロクな話はありませんから。

しかしそれらの作品は紛れもなく優れた古典と呼ばれる作品たちなのです。

 

現実ではそういうことは起こらない。突然ヒーローがやってきて、一件落着で済めば、警察と国連と米軍基地はいりません。ですが最近の世界情勢を見ると、死んだと言われてきたこの『機械仕掛けの神』が復活しようとしているようにも思われます。

古くは二千年前に、演劇という様式で以って「それじゃアカンのでっせ」と言っているものを。しかしそうでもしなければ解決もしそうにないなにかと、その間にいる私の中で、この脚本は生まれました。

 

このお話はどこか田舎にある仮想の介護施設の、そのあまり良いとは言えない環境で働いている四人のひとたちを描いています。

そして、死んだと呼ばれてきた物語の様式、デウス・エクス・マキナだけでなく、死んだとされる表現や殺されてしまった表現、つまりタブーといわれるような領域に、あるところではなんの脈略もなく、言及しようとしています。遊びでも脅しでも啓蒙でもない。ただ、安全というものへの些細な犯行声明かもしれません。

 

優れた古典作品や、封印されてしまった禁断の言葉の中から、現代を生きる私たちの心に響く何かをすくいあげること。時代を経て、その言葉たちに、新しい価値を見出すこと。

それは、演劇というシステムが日本という社会に担うひとつの、文化的な役割ではないか…と、私は勝手に考えています。

 

多くの出来事が死んでいると思われ、忘却された彼方から静かに忍び寄る。そのことから目を背けて生きていくことは、安全な私たちの国でもいつかきっと不可能になる。だからこそ今、タブーに目を向けることから始めたいと思って、この作品を上演します。

繰り返すことになりますが、私は、私たちは、演劇という方法で、古典(言葉)という泉の中から、新しい答えをすくい上げる力を取り戻さなければならないのではないでしょうか。

 

 

幼児は泣いても誰も助けてくれないことを学ぶと泣くことをやめるらしい。これは幼児に限らず大人も同じではないだろうか。

誰も助けてくれないと知った人間はおそらく涙を流さない。

悲劇と救済はない、暗黙の了解だけが現代社会を包んでいる。

強く声を上げ、正しく助けを呼ぶ力。

 

 

 これは息を吹き返しつつある『死んだはずの神様』の話かもしれません。

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